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エリーザベト (オーストリア皇后) : ミニ英和和英辞書
エリーザベト (オーストリア皇后)[きさき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
皇后 : [こうごう]
 【名詞】 1. (Japanese) empress 2. queen 
: [きさき]
 【名詞】 1. empress 2. queen

エリーザベト (オーストリア皇后) : ウィキペディア日本語版
エリーザベト (オーストリア皇后)[きさき]

エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(、1837年12月24日 - 1898年9月10日)は、オーストリア=ハンガリー帝国皇帝(兼国王フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。「シシィ」(, , )の愛称で知られる。
== 生涯 ==
バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれた。幼少の頃は父マクシミリアンと共に街に出かけ、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮したり(もちろん住民は、王家に連なる極めて身分の高い公爵と公女であると知りつつも知らぬそぶりで歓迎していた。エリーザベトは後年、「私が唯一自ら稼いだお金」と言ってそのチップを大切に保管していた)、また狩りに行くなどしていた。王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため自由を満喫していた。
そんな生活は1853年8月、姉ヘレーネの見合い相手だった、母方の従兄である皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に見初められて求婚されたことによって終わりを告げた。シシィは婚約が決まった翌日からお妃教育を受けさせられたが、不真面目で勉強嫌いの彼女は何度もヒステリーを起こしていたという。しかし、彼女にとって生涯忘れられない出会いもあった。お妃教育の一環として彼女に広大なオーストリア帝国の歴史を教えたマイラット伯爵は、彼女が最初に出会ったマジャル人だった。伯爵は共和制の素晴らしさを彼女に密かに吹き込むなど、彼女に多大な影響を与えた。1854年4月、シシィは16歳で結婚、オーストリア皇后となった。
しかし、自由人だった父の気質を多く受け継いだ彼女は、母方の伯母で姑であるゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の厳格さに耐えられず、人前に出ることを極度に嫌がり宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い、大西洋に浮かぶマデイラ諸島などに療養に行く、夫に同行してイタリアを訪問する、あるいは個人的に旅行に出かけたり病院を慰問したりと、生涯に渡りさまざまな口実を見つけてはウィーンから逃避し続けた。
特にエリーザベトが心安らぐ最高の場所としたのは、当時オーストリア帝国の一部であったハンガリーであった。ゾフィー大公妃がマジャル人嫌いだったこともあり、エリーザベトは死ぬまでハンガリーを熱愛し続けた。その熱意は勉強嫌いの彼女が、短期間でハンガリー語を身につけ、皇帝とハンガリー貴族の通訳を出来るほどであった。穏健独立派のハンガリー貴族ジュラ・アンドラーシ伯爵と知り合い、1866年普墺戦争敗北を受けて、翌1867年にハンガリーの自治権を認めたアウスグライヒ(妥協)を締結するにあたっては陰の推進者の役割を果たした。アンドラーシはアウスグライヒ後のハンガリー王国の初代首相、帝国外相となる。
エリーザベトの晩年最大の悲劇は、息子ルドルフ皇太子の自殺であった(1889年、暗殺説もある)。夫フランツ1世の死後喪服を着続けたマリア・テレジアに倣い、その後彼女は死ぬまで喪服を脱ぐことはなかった。
1898年9月、旅行中のジュネーヴレマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害され、その生涯を閉じた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「エリーザベト (オーストリア皇后)」の詳細全文を読む




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